軌跡
自分の経歴というか、自分の辿ってきた軌跡をまとめてみようと思う。
もしかすると、これから先のヒントになるかもしれない。
生まれてから小学校まで
うまれたところ
結婚した両親が住んでいたのは、千葉県市川市曽谷。
そして自分が産声を上げたのは、曽谷の松丸助産院? 以前、母親から聞いたのだが、記憶が曖昧だ。
1961年11月17日未明(おそらく3~4時頃)に生まれた。
しし座流星群が極大を迎えたころなので、まさに【星降る夜】に生まれたようだ。
生まれた年の出現数は、最大で1時間に80個程度の出現だったらしい。
毎年出現数が変わるが、33年ごとに大出現するらしく、次回の大出現は2033年と言われている。
11年後だな。
1966年のピーク時には、1秒間に40個ほど出現したらしい。
遅くともそのころまでには、今の仕事を落ち着かせて、悠々としていたいな。
ようちえん
幼稚園に入る前に千葉県市川市平田に引っ越した。引っ越しの記憶は全くない。
そこで一年間、幼稚園に通った。
自宅アパートの近くの、つくし幼稚園。
担任?の先生、美人で大好きだった。よしざわ先生って言ったかな?
クレヨンしんちゃんと被る気もするが、『きれいなおねいさん』が好き。そんな子供だった。
しんちゃんと違うのは、引っ込み思案で大人しい優等生(…自分で言っちゃってる)だったこと。
この頃母親から、『女の子は守ってあげなければいけない』と聞かされて、それ以来、ずーっと心がけているつもりだった。
実際の所、出来ていたかはわからない。
一番印象に残っているのは、上履きのまま途中まで帰っ来てしまい、あわてふためき、履き替えるために幼稚園に戻ったこと。
かなりびっくりした。思い出すと今でもドキドキできる。
小学校入学
平田に住んでいた頃はまだ、6畳一間のアパート暮らし。
家族4人が川の字になって寝ていた。
それが普通のことだったので、別に何も疑問を持っていなかったが、今考えてみると狭かったな。
市川市立平田小学校に入学し、学校生活スタート。
成績は真ん中より少し上?下?
自分の成績のことは何も意識していなかった。ただ通うだけ。遊ぶだけ。
1年生の時、放課後6年生の女の子(自分からしたら大人)から、『かわいい~❤ 森進一みたい!』と言われたのをまだ覚えている。
真っ赤なセーターを着てたりしたので、少し目立ってたのか、当時の人気歌手、森進一と言われても、自分では誰のことかさっぱりわからなかった。顔が少し似ていたのか?
転校
3年生の夏休みに引っ越して転校。
千葉県松戸市高塚新田。賃貸の一戸建て。部屋が増えたので嬉しかった。
転校先は、明治から続く、歴史のある松戸市立東部小学校。
市川よりも田舎だった。
「~だべ」、「したっけ」、みたいな方言を使う部族が、いきなり自分の周りにウジャウジャ。
平田では、坂が全くなかったのだが、引っ越し先は自宅のすぐ近くに急坂があり、自転車で降りるのがめちゃ怖かった。
学校が変わると環境が変わる。そして自分の立ち位置も変わる。
東部小に転校してよかったのは、勝手に運動能力抜群になったから。
田舎の環境が良かったせいで、自分の能力がアップしたわけではない。
重力が半端ないクリプトン星出身の、カル=エル(地球ではクラーク・ケント)が、重力がとても小さい地球でスーパーマンになったのと同じ理屈。
平田小では、縄跳びを日々取り入れていて、昼休み後、全校生徒が校庭に出て、一斉に跳ぶのだ。
いつまで跳び続けられるか、学年は関係なく、最後まで残った生徒が、朝礼台で何かしらコメントさせられる。
自分は、その、朝礼台に招かれるのはイヤ=『大勢の人前で話すなんてムリ』だったので、まだまだ飛び続けられそうでも、人数がそれなりに減ってきたところで止めていた。
そんな感じだったから、きっとそれなりの跳躍力が付いていたのだろう。高跳び、幅跳びとか、みんながびっくりするくらい跳べていたようだ。(自分では自覚は無かった)
そして勉強も。同じ学年で同じ授業を受けているはずなのだが、成績が勝手に上位に。
自分は勉強ができると勝手に勘違い。
明らかに、市川と松戸ではレベルが違う。
中学校から高校まで
中学校
東部小学校を卒業、松戸市立第五中学校へ。
通学は、帆布製のこんなカバン。
中学校の生活は一番過激だった。
1年生の時点でクラスの7人くらいが喫煙。
リーゼント、ボンタン、シンナー、剃り込み、ハイカラー、長ラン。
今の時代では、考えられないくらい荒れてた。
『スペクター』という暴走族に憧れる同級生も多数。
もう滅茶苦茶。
教科書を最後まで消化できずに学年が終わることもあった。
そんな学校で、自分は真面目に、普通に、通っていたが、他の生徒とは少し違って、人と同じなのがとにかく好きではなく、通学用のあの帆布製のカバンに、カーペンターズのロゴをマジックで書き入れたりしていた。
このロゴが、暴走族・スペクターのロゴと被り、少し問題になったみたいだった。
同級生の間で、カーペンターズのロゴ入れが流行った。いわゆる不良とレッテルを張られた同級生は、カーペンターズのロゴを入れたら、何故か職員室に呼び出されていた。
好きな女の子、たくさんいた。
みんな好き。
恋愛感情というより、とにかく好きって感じで。
今思い出せるだけでも、7人。多すぎる気がする。
男の友達は、鴻巣君、今村君、前田君。たった3人か。
高校
千葉県立国分高等学校に入学。
ここは市川市コクブン。よくコクブと間違えられるけど、こくぶんが正しい。
軟式テニスをやるために入ったようなもの。
部活はそれなりに楽しかったが、本当にやりたかったのは自転車だった。
だが、自転車部も自転車同好会も無かったので断念。
就職してから
まずは東京都杉並区阿佐ヶ谷。
株式会社フレンド商会という、当時都内最大規模の自転車専門店に就職。
当初は松戸から通っていたが、19歳になってから練馬区上石神井に引っ越し、都民になる。
数え年で成人式の松戸市と、満年齢で成人式の練馬区で、合計2回成人式があった。
どちらもいかなかったが。
両親が松戸から印旛郡印旛村(現 印西市)に引っ越してから、自分は松戸に戻った。
28歳になるまでの10年間、フレンド商会に勤め、念願の日本一周のため、退職。
フレンド商会では、製作部のチーフとしてメカニック全般を任され、レーシングチームも率いた。
今でもこの時に教わったことが活きている。感謝。
フレンド商会以降
大日本印刷入社
日本一周を終えてから、大日本印刷に契約社員として入社、夜から朝までの夜勤で資金をためた。
印刷工場は東京の市ヶ谷だったと思う。総武線で半年通った。
その後、自転車のHowToビデオを製作し、販売。
学生援護会アルバイト
早朝から、求人誌を配送するアルバイト。
ただ単に生活するためのアルバイトだった。
これは柏市柏。
思い出すと、このバイトの時に今の住まいのすぐ近くを毎日走っていたようだ。
大和音響株式会社入社
学生援護会の求人誌、デイリーanで見つけた、音響設備の技術営業職。
東京都江戸川区南小岩。
社長と次長と、事務のおねいさんだけの、小さな会社。
課長として働いていたが、部下がいない。そんな会社だった。
音響設備の会社とは言え、その頃のメインはカラオケ機器。
たまに大きなクラブに音響システム導入とかもあったけど、ほとんど全部カラオケと言っても良いくらい。
前妻が発病し、やむなく退社。
WEBの管理を今でも任されているが、更新したくても依頼内容が漠然としていて中途半端なままになっている。
近々、全面リニューアルした方が良さそう。今のままでは古すぎる。
株式会社ジュピターテレコム入社
ケーブルテレビ会社、ジェイコム東関東局に勤務。千葉県柏市名戸ヶ谷。
ここに決めたのは、自宅から自転車で5分と、とにかく近いからそこに決めた。
営業職は初めてだったが、何とかなるだろうとあまり深く考えずに決定。
結局、誰もやらない、やりたがらない、法人営業を任されたり、電波障害対策施設の専任担当となり、地デジ化対策に奔走。
当時はテレビコマーシャルを入れていなかったが、最近は『♪ジェイコムモバイルるんるんるん~♪』ってしょっちゅう見かける。当時からCM入れてくれてれば、もう少し知名度が高く、営業もしやすかったと思う。
株式会社グッドワークコミュニケーションズにて業務委託で働く
JCN関東にてケーブルテレビの営業を受託している会社、グッドワークコミュニケーションズにて、北越谷駅近くの越谷局?でリーダーとして勤務。
そこは、越谷市神明町だった。
ここでは、『つやつや』というお店のつけ麺にはまり、昼休みにわざわざ車を出してよく通った。
場所は、越谷市登戸町。
本当に、麵がツヤツヤ。ぴかぴか。うまい!
つけ麺以外食べてないのが悔やまれる。
越谷でリーダーをやった後、春日部局に異動。
ここでも同じ仕事。春日部駅から徒歩で10分位、春日部市中央。
満開の時期の藤棚の通りは、歩いて気持ちが良かった。
リーダーというのは、営業マンの管理、数字の管理等、いろいろと面倒な役職。
数字が落ち込んで、局から詰められてた頃、花粉症で涙目になってたのを、涙ぐんでいたと思われた気がした。
数字がいかないくらいでは泣けないよ。
終電で帰る日々が続いた。
春日部では、はなまるうどんがメインで、おいしいラーメン屋を知らないままでおわった。
で、その後は草加局へ異動。草加駅から徒歩圏内、草加市氷川町。
草加では、線路沿いにあった、つけ麺屋さんが忘れらない。
柔らかい極太メンマ、濃厚なスープ。
店名忘れてしまったが、まだ営業してたら是非行きたい。
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